映画評 「尾崎豊を探して」 [映画評]
この映画、ネットでは散々に酷評されている。
いろいろ言われる作品はあるが、ここまでの酷評は珍しいというくらいに。
私は、尾崎豊と同年代であり、同じ時代を生きた。
正直、それほどファンというわけではなかったが、ずっと気になる存在ではあった。
本作も、2,500円という値段設定にちょっと引いたが、見届けたいと思った。
ネットの評価は当てにならないものでもあるから。
結果、ネットの評価にうなずかされた。
確かに、酷い。
尾崎さんのパフォーマンスは圧巻で、それを観られるのは嬉しいが、
なぜか映像はブツ切れにされ、失礼ながら不要としか思えないような映像がはさみ込まれる。
その映像が、なんともはまっていない。
端的に言うと、カッコ悪い。
顔をアップにしたインタビュー映像が折々にずっと流れるのだが、意図が全く分からない。
細切れで、尾崎さんの言葉が少しも届いてこない。
しまいにはインタビューアーの緊張感の全くないちゃちゃまでが入り、興醒めも甚だしい。
わざと尾崎さんを貶めようとしているのかと勘繰ってしまうほどである。
タイトルは「尾崎豊を探して」であり、
「-The Truth of OZAKI YUTAKA-」との副題もついているのだが、
全然尾崎さんの実像を探さないし、真実にも迫らない。
いや、これは怒る人がいるのも納得である。
というか、怒らない人の寛大さに、心から脱帽する。
2年前に公開された「HURRY GO ROUND」という映画は、
尾崎さんと同じように若くして亡くなった元X JAPANのHIDEさんの実像に迫るものだった。
この作品もいろいろ言われたが、本作と比べるといい作品だった。
少なくともHIDEさんの死の真相に迫ろうとしていたし、
いろいろな人へのインタビューや未発表音源など、ファンが喜べる内容もあった。
本作にはそれもない。
一体何をしたかったのだろう。
世の中には、つまらない映画、とんでもない映画、何の足しにもならない映画があふれていて、
ここでそうした系列に一本加わってもなんということはないかもしれない。
しかし、本作はすでに亡くなった人を描いている。
この映画に関わった人が酷評されるのは自業自得だが、
亡くなったアーチストまで低く見られるとしたら、こんな不幸なことはない。
いろいろ言われる作品はあるが、ここまでの酷評は珍しいというくらいに。
私は、尾崎豊と同年代であり、同じ時代を生きた。
正直、それほどファンというわけではなかったが、ずっと気になる存在ではあった。
本作も、2,500円という値段設定にちょっと引いたが、見届けたいと思った。
ネットの評価は当てにならないものでもあるから。
結果、ネットの評価にうなずかされた。
確かに、酷い。
尾崎さんのパフォーマンスは圧巻で、それを観られるのは嬉しいが、
なぜか映像はブツ切れにされ、失礼ながら不要としか思えないような映像がはさみ込まれる。
その映像が、なんともはまっていない。
端的に言うと、カッコ悪い。
顔をアップにしたインタビュー映像が折々にずっと流れるのだが、意図が全く分からない。
細切れで、尾崎さんの言葉が少しも届いてこない。
しまいにはインタビューアーの緊張感の全くないちゃちゃまでが入り、興醒めも甚だしい。
わざと尾崎さんを貶めようとしているのかと勘繰ってしまうほどである。
タイトルは「尾崎豊を探して」であり、
「-The Truth of OZAKI YUTAKA-」との副題もついているのだが、
全然尾崎さんの実像を探さないし、真実にも迫らない。
いや、これは怒る人がいるのも納得である。
というか、怒らない人の寛大さに、心から脱帽する。
2年前に公開された「HURRY GO ROUND」という映画は、
尾崎さんと同じように若くして亡くなった元X JAPANのHIDEさんの実像に迫るものだった。
この作品もいろいろ言われたが、本作と比べるといい作品だった。
少なくともHIDEさんの死の真相に迫ろうとしていたし、
いろいろな人へのインタビューや未発表音源など、ファンが喜べる内容もあった。
本作にはそれもない。
一体何をしたかったのだろう。
世の中には、つまらない映画、とんでもない映画、何の足しにもならない映画があふれていて、
ここでそうした系列に一本加わってもなんということはないかもしれない。
しかし、本作はすでに亡くなった人を描いている。
この映画に関わった人が酷評されるのは自業自得だが、
亡くなったアーチストまで低く見られるとしたら、こんな不幸なことはない。